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「動物と人間の世界認識」日高敏隆

日高敏隆「動物と人間の世界認識 イリュージョンなしに世界は見えない」を読んだ。
(「利己的な遺伝子」の訳もこの人)

純粋に、あの時ウチノネコはどう感じていたのか?という疑問の答え(orヒント)が見つかるかな~?と思って読んだら、仏教的なニュアンスが感じられた、ということを書き留めておこう、と。

岸田秀氏の「唯幻論」(「人間は本能が壊れてしまった為にその代わりとなる『自我』が必要になった、けれどこの自我なるものはじつは幻想であるので、人間は幻想に支えられて生きることになった」)という考え方があったということ。

ユクスキュルの「環世界論」(動物は環境すべてを本能により即物的にとらえているというのではなく、むしろ本能があるが故にそれに基づいて環境の中からいくつかのものを抽出し、意味を与えて自らの世界認識を持ち、その中で生きている。だからその環世界は決して客観的に存在する現実のものではなく、あくまでその動物主体によって抽出・抽象された主観的なものである。)

日高氏の「イリュージョン」人間以外の生き物の世界観も含めて呼ぶ言い方を「イリュージョン」とカタカナにしている。 #環世界じゃダメ?引田天功と間違えられない?と思うのは私だけ?(^_^;)

で、人間以外の生き物のイリュージョンがどんなか、説明があって。

ダーウィンの「種の起源」(よりよく適応した個体はより多く子孫を残す…中略…このようにして進化が起こる)
=生き物は種の維持のために行動しているのではなく、遺伝子が利己的な利益だけの為に個体を操作して振る舞わせている(それぞれの個体が自分の適応度(fitness)をできるだけ増大させようとして生き、努力している)
=種の維持は個体の目的でもなく目標でもない、ただの結果
=進化には何の目的も計画もない というのがあって。

人間は「死」を知ってしまったので「輪廻」というイリュージョンを持ったが、それで楽に生きられるわけで~があって。(^_^;)
ドーキンスの「ミーム」は、そこはかとない願望である輪廻とか死後の世界の代わりに、現代人が持ったイリュージョンで、「自分が生きた証」「生きる意味」「どう生きるべきか」は「自分がいつまでも生きていたい」と同じことなんだてことで。

「色眼鏡でものを見てはいけない」と言われるが、実際には色眼鏡なしにものは見られない。
とか、「人間なんだから、客観的(=科学的)にものを見ることができる、またそのようにしなければいけない」と言われるがこれは大きな過ちで、単に「科学的な根拠を与えられたイリュージョン」の世界で生きているだけだし、それを楽しんでいるわけだということ。
人間は、何かを探って考えて新しいイリュージョンを得ることを楽しんでしまう動物なのだ。

・・・というのもまたひとつのイリュージョンにすぎないのだろう、って。(^_^;)

でもこういうふうに思い当たることで、堅苦しい「神」「真実」「美学」「経済」・・・なんていうのに囚われない世界を構築できるのでは? と結んでいる。

あとがきより
「動物たちが自分たちのまわりの世界をどのように認識しているのだろうか(中略)。
 動物たちを知るためばかりでなく、われわれ人間の世界認識について考える上でも、この問題はきわめて重要で(中略)、「客観的」「事実」「科学的」などという、われわれがしばしば気易く使っている言葉の意味を問い直すことになるからである。」

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