カテゴリー「仏教」の記事

自分なくし

「さよなら私」みうらじゅん
書き方が面白いので、少し抜書。とても簡単でやさしい仏教。

P.18|19『空アリ』
--ここから--
 街を歩いていて、いつもドキッとさせられるものがあります。それは駐車場やマンションに貼ってある看板の文字です。
「空アリ」
 なかには、「空ナシ」と、いうのもあります。
 仏教では「空(くう)」と読み、あらゆる事物は固定的な実体性を持っていないと説きます。
 人間は実体のないものをあると思い込み、それに執着し、わがものにしようとします。
--中略--
 この世の現実はすべて流動的であり、止(とど)まることはありません。
 あらゆるものにとらわれることなく生きなさいと、釈尊はおっしゃいます。
--ここまで--

P.20|21『徒労という修行』
--ここから--
 落ち込んだとき、落ち込んだ自分をどう慰めようとばかり考え、--中略--
 薄々は気がついているのだけれど、自分が悪者になりたくないのでなにかのせいにしたくて落ち込んでみせるのですが、だれの同情も得られなくてさらに落ち込みます。
 そんなときは黙ってドン底まで落ちてしまえばいいのです。ドン底だと思ってた場所がまだ真のドン底ではないと気づきます。今ある立場や幸せがこの先、いつまでも続くはずはありません。それは、この世のすべてのものが流転しているからです。
 そのことをしっかり心にたたき込み、あきらめ、それに慣れなければいけません。
 悲しいんじゃありません。
 しかたないことなのですから。
--ここまで--

P.22|23『呪文・そもそもはない』
--ここから--
 結局は、何もないということがわかるまでに時間がかかるものです。頭ではわかっていても、それは言葉としての「ない」であって、あるの反対語として認識しているにすぎません。
--中略--
「そもそもはない」
 何度も繰り返し、そうつぶやいてみましょう。
--中略--
 この呪文は一見、人の幸せを打ち消しているように思えますが、「ない」とは否定の意味ではありません。
 否定とて、あることを前提にしているからです。
--ここまで--

P.24|25『自分探し』
--ここから--
 サッカーの中田英寿選手が引退の際、発した「自分探し」は大問題です。
 本来はまだ自分のできることがサッパリわからん若者や、長くは生きてきたがいまひとつやりたいことが見つからなかった者が、カッコがつかないもので、夏場の冷やし中華みたいに「自分探しはじめました」って、苦しまぎれに発する言葉であったはずだからです。
--中略--
自分なんて見つけてるひまがあるのなら、少しはボンノウを消そうとする「自分なくし」のほうが大切じゃないでしょうか?
--ここまで--

P.26|27『脳との最終戦争』
--ここから--
 めんどうくさいのは「自分」があるからです。
--中略--
 自分が「自分」だと思い込んでいるものは何でしょう?ロマンチックに言えば「ハート」ってやつなのですが、実際は脳が作り出した幻想にすぎません。
--中略--言うなれば脳の奴隷が自分なのです。
 すべての悩みの原因は、自分があると信じていることなのですから。
--ここまで--

P.34|35『あきらめることから始めよう』
--ここから--
「あきらめる」という言葉はもともと仏教の言葉で、悲観的に用いられることがありますが、物事の真理を明らかにすることが語源です。
 人はどうにもならないことをあえてして、それがかなわないときに悩みを生み出します。自業自得、というやつです。
--ここまで--

P.42|43『不安こそ生きてるあかし』
--ここから--
 思い返せば不安でなかった日など、一日たりともありませんでした。
--中略--
 もし、不安じゃなかったときがあったりしても、それは単に不安を忘れているだけのことで、また気がつけば新しい不安はすぐそこに待ち構えているのです。
 不安の反対語が「安定」なんて嘘。安定なんてそもそもこの世にはなく、油断している期間のことをそう呼んでいるにすぎないのです。
--中略--
 生き物の宿命は別離であり、死別であること。この最大の不安から逃れることがない限り、安定などあるはずがありません。すなわち、不安をなくすということは生きることを否定することと同じ意味なのです。
 もう、あきらめるしかないが正しい。
--ここまで--

P.50|51『だまされるのはいつも言葉』
--ここから--
 人類最大の発明は言葉であり、最大の失敗を生んだのも言葉です。
--中略--
 たとえば「幸せ」なんて言葉。
--中略--
 だって幸せなて、人類が作った言葉。幻想ですもの。それが悩みの根源なんですね。
--中略--
「だまされたの私」、だまされたのは人にじゃなく、言葉にです。
--ここまで--

P.116|117『マイ・フェーバリットな仏を探して』
--ここから--
 しかし本来、仏像とは「生きることは苦である」と悟ったお釈迦様がモデル。生前は偶像崇拝は禁じられていました。それが死後500年ぐらいたって、「そろそろ肖像権も切れたろう」と、だれかが気づき仏像は作られるようになりました。
 国宝や重要文化財という美術心、拝む対象である宗教心、それとは別に言葉では表せないが「グッとくる」心というものもあります。
--ここまで--

P.172|173『じゃまくさいが正しい』
--ここから--
「じゃまくさいのは自分だ」
 自分などあると思っている自分です。これを知ったところで何もなりません。
 じゃ、どうすればいい?
 答えなどないと強く思うことです。
--ここまで--

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スタジオ休講3度目の延長

今朝ジムに行ったら、スタジオの再開がまたまた延長になっていた。
7日から再開らしいが、もう半年くらいスタジオがなくてもいいよ。

こないだスーパーで、ジムに来ていない人とばったり。
ジムには来ないが、あちこち出歩いていることを知っているので、あまり近くで会話をしたくない人。
その日も飲食店に行ったらしく「満員やった」と言ってる(汗)
続けて「コロナ恐いけど、かかるときはかかるねん」と悟ったようなことを平気で言う。
そういうことを言う人に限って、何も感染拡大防止の努力をしていないように見える。(気持ちは知らんが)

南直哉師も「感染しても仕方がない(つまり、感染者の受容)」と覚悟しろと言ってるけど、言う人が違うと、意味が違う。
師はまず「自分が原因で他人に感染させない」倫理を言う。その上で、
” 「感染することを覚悟する」ということは、極言すれば、その核心に「死」を置くことです。そしてそれは、死から自己の在り方を見ることです。するとそれは図らずも、今の自分にとって、これからの自分にとって、本当に大切なことは何なのかを考え直すことに通じるでしょう。”

スーパーで出会ったジム仲間は?(怒)

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仏教原論2019年度第10回(内容なし

今回の一冊はなし。代わりに(まだ発売されていない)週刊文春の話をオフレコで。

予告通り、今回はスッタニパータ第4章。
プリント(1)
洞窟八詩篇訳注 ー八頌品(はちじゅぼん)の研究 中谷英明
スッタニパータ4章5章を読む上での参考に。

プリント(2)
西田幾多郎のノート:純粋経験に関する断章 より 仏教の大綱
西田の仏教観が綴られているが、間違いがある。→ メモ(サリーさん)

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仏教原論2019年第9回(内容無し)

今日は1日ついてない日だった。

実家に行った日の前くらいから、風邪っぴき。鼻水と咳、微熱気味でぼーっとしてる。
だけど、ジム。スタジオでのFSが月の初日だったから無理して行った。

トレーニング中に実家と妹から電話。
隣が「木を切れ」というのを近所の別の家で喋ったら、そこの知人が植木屋とかで、その知人に切ってもらうことになってしまって、見積もりもなくいきなり「いくら払える?」と来たと(強気?)
ママは5~6万と言っちゃったらしい。そしたらもう今朝から80歳くらいのお爺さんが木を切りに来ちゃったと。
今更私にどうせぇっちゅうの?
妹に、5万払って、木の切り屑とかの始末まで全部やってもらえと伝えといた。

しんどい。
そしたらお風呂上がりに、低血糖だか貧血だかで倒れかけ。
ジム仲間のおばさんに助けてもらった。
チョコと梅干しもらってちょっと回復、ふらふら家に帰ってきた。

で、今日は仏教講座の日。
雨降りじゃないけど車で出かけるようお願いする。
講義中、何度も咳が出そうになるし、鼻水は出るし、辛い。
スッタニパータの第一章、だから、まあ、知ってる。
なんとかこの頭でもOKだった。
笑ったのは釈迦仏教の根本分裂の原因、「ざっくり言って金と色」て(^O^;)

望年会の皆さんを羨ましく見送って、帰宅。
車の中で欠伸が出まくり、運転手のダンナさんに嫌味言われるorz
もう余力なし。

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仏教原論2019第8回

お楽しみ会の参加を断念したので、気落ちしながらの受講。
でも、宮崎先生の熱い仏教話「自灯明」で締めくくられたので、何とか満たされた気分。

プリント、宿題になってるので読んでおく。
「現代思想2019年11月号(特集・反出生主義を考える)」からの抜粋、「釈迦の死生観」佐々木閑
学者らしいドライで読みやすい書き方で、好感しか持てない。

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仏教原論2019第7回

メモ:
signifiant と signifie
所詮と能詮

後で書く

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仏教原論2019第6回

ダンナさんと行ってきた。
ダンナさんと行って楽しめるところは、捉え方の違い。
私はただ単純に「面白いなぁ」と講義を聞くだけ。
なんだけど、ダンナさんは「わからない、わからなさすぎる」と言いながら、今日の話「あれは『犬』だな」と言ったりとか。
犬は言語を持たない。。でもなんで猫じゃなくて犬?って聞いたら「鼻が利く」とか何とか。へー?

で、今日のテーマは「言語」。

有支縁起は最初、支分が少ない→後世に多くなってきて、十二支縁起になった。
最初は行、識から。
最古層の金句の直説では渇愛(タンハ)から。(五支縁起:愛→取→有→生→老死)その渇愛はどこから?(=認識論)
仏教の認識論:西欧の認識論と存在論の区別がない。(ちなみに唯識派は認識論に近くアビダルマは存在論に近い)

六根、十二処、十八界の図解
(講義で使われた図はもっとシンプル、下のメモ参照)
「苦をなくすプロセス
1.物事は十八界の接触によって起こる
2.それによって現れるすべてのものは無常であり苦である。
3.つまり十八界にこだわりがなくなれば苦は生じなくなる。」ー 大乗仏教(唯識・中観)以降、これを強化するものが『言語』

今日のプリント:
スッタニパータ 第三章 大いなる章 12:二種の監察 <756>、<757>、第四章 八つの詩句の章 2:争闘 <867>、<874>
中村元訳とパーリ語文、参考に他の学者の訳を並べて読む。これがとても難しい。

名(nāma)と色(rūpa)
nāmarūpasmiṃ(名色に)を、中村元先生は<名称と形態>(個体)と訳、意味は「精神と体」
井上先生は絵を描いて説明:「りんごの木」、それが[A](色 rūpa)、人がそれを眼で見て(受)、人の脳の中で「りんごの木」を想うとき、それは[A’](色+行)なのだが、A=A’だと無意識に認識(識)

874偈は唐井隆徳訳がわかりやすかった→「想うのでもなく、誤って想うのでもなく、想わないのでもなく、想いを滅したのでもない。このよう[な境地]に結びついた者にとって、色は滅する。なぜなら、妄想によって[色を]名付けることは想いを因とするからである。」
→「想い」を否定(絶対否定)している。妄想=戯論(中観派は、空見と言って空を実体視してしまうことすら否定する)

メモ:(プロジェクター)https://www.evernote.com/l/ACbhZsulFkVPkY50p7vkd5hu6fsk5H2DKPI/

メモ:「旋火輪(せんかりん)」空を表す。今日で言う、静止画を集めると動画になるみたいな。量子力学みたいな?

今日の雑談:
哲ちゃん、本居宣長ほどじゃないけど、自分の葬式を(どうするか・どうなるか)ふと想うのでした。哲ちゃんの奥さんはボーン・クリスチャン(驚)結局葬式は自分のためじゃなく残された人のためのものだと。

と。まず講義の最初らへんに言ってたこと→「世界」っていう岩波のリベラルな本9月号に寺島実郎が”脳力のレッスン”で仏教のこと書いてるんだけど、それ、あかんやつらしい。まずい仏教理解だと。『応無所住・而生其心』は『空』と言う概念とは違うし(佐々木閑は「フラクタルのようなもの」と言っているらしい)、『空』と『ゼロ』を同じものとしてるなんて仏教の本質から逸脱してる。

中論は英語のほうが理解しやすいとのこと。哲ちゃんは愛読しているらしい。すご。

100分で名著、小松左京だったけど、スッタニパータもやりたかったみたい。次はこれにして!

と、忘年会があるらしい。行きたいけど、ダンナさんは「ヤだ」って、他人と話すのが嫌だと。

帰りに神泡屋。そこでサイコロを振ったら、2人ともゾロ目が出て、ビール一杯無料券もらった。
中秋の名月、だけど、満月は明日。

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仏教原論2019第5回

ダンナさんと行ってきた。

今日の1冊は「仏教入門」南直哉。
てっちゃんは院代に「仏教の基本書を書くべき」と早くから言ってたそう。
直球の仏教書。特に中論を巡る議論は鋭く、中論が「言語批判」、相依縁起を語っている、など、全面的に同意するとのこと。
ただ、「輪廻は要らない」は、どうかな、、だそうです。
※よくわからなかったところ→相依縁起(A⇔Bと相互に縁る、となると、AやBに自性が存在することになる。こういう図式は言語の構造である。言語は人類の第二の本能、根源的慣習。例えば「私」は言語により実体があるように思えるが、実は否定しなくてはいけない、というのが中論。)

で、今日は「怪談とほとけ」について。
怪談は仏教説話に近い、と。
かさねがふち(累ヶ淵)
四谷怪談の原型とも。
典型的な因縁話。
日本人はこういう怪談話を通して因縁話(仏教説話、なので話の終わりは「解脱」という救いがある)を聞いてきたのでは。

ところで怪談につきものの「霊」について。
今回の主題は「霊」、いったい霊とは何か。霊性・霊魂・亡霊・怨霊・・・
仏教には中有(ちゅうう)という考え方がある。(四十九日のこと)
死んですぐ後有(ごう)[の世界]に行ければ、霊は存在しない。
ちなみに、中有を認める仏教と認めない仏教があるらしい。説一切有部は認める、上座部は認めない、チベット仏教は認める・悟りの鍵・・・
インドにはガンダルヴァという霊のようなものがいるらしい。香りを食べるので「食香」と呼ばれる。そう言えば故人は香食、線香を絶やさないようにするね。

閑話休題。

ブッダは中有などというものは「ない」と言っている。(マッジマ・ニカーヤ第38経「大愛人経」・プリント参照)
縁がなければ識の生起はない。(識を輪廻する魂と見ている弟子に、こう言った)
つまり「識」≠「霊」
死んでも心が続く欲求は生存欲求、心が続く限り「私(実体)」は常住という本能。(中論は言語批判)

霊性とか霊知は、人間の生存欲に根ざしている。
 ちなみに 有愛(ヴァータンハ・生存欲)、欲愛(カーマタンハ・気持ち良い欲)、無有愛(ヴィバワタンハ・存在しない欲、自分を消したいという欲望)のうち、無有愛なんて、仏教の深いところ。

では「輪廻」は?
(和辻哲郎のプリント参照)
凡人には輪廻がある(無我を悟っていないから)
聖者(如来など)には輪廻はない(無我を悟っている)

道元「正法眼蔵」弁道話より(プリント参照)
身心一如にして性相不二なり(体と心はひとつ、私と世界はひとつ)→心性(霊魂)の常住(不滅)を批判している。
この弁道話の強い口調は、道元が浄土宗(法然)が仮想敵だから(笑)

最近の哲学
「思弁的実在論」が流行ってきている。(マルクス・ガブリエル)
個物は存在するが世界は存在しない。

残留思念の話
「姑獲鳥(うぶめ)の夏」」京極夏彦
在るか無いか。存在論。オントロジー。→ てっちゃんはこの話もしたかったけど、時間切れとなり。

釈さん、井上先生との会話より
仏教は人類の知恵の結晶
そして霊。
という字は祭壇から来ている=儀礼
霊を祀る:「死」の受容の一形態、→ 共同体は霊を必要としている? → 霊は共同幻想!(笑)

帰りに梅田の「神泡屋」に寄った。

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仏教原論2019第4回

ダンナさんと行ってきた。
車、失敗。五十日で道が混んだ。着いたのは5分前という。。
で、着席したのが後ろの方だったので、プロジェクターの文字が見えづらかった。
最初に十二支縁起の「三世両重」とか「胎生学的縁起観」という話が出てきて引いてしまったし。
それって、不変の実体が次の世に生まれ変わる輪廻観でしょ。
どうもこういうファンタジーにはついていけない。
(後に「往観」出てきて、納得。縁起や輪廻は滅するのが理想、と。)

参考:「仏法」ポーパユット テーラワーダ仏教 サンガP.131~133に十二支縁起、初期の仏教に近くしかも現代的
認識過程が苦の根源、無くすためには滅していくこと。
仏教の認識の鍛錬(理想)は、「6識-6根-6境(眼識-眼-色、耳識-耳-声、鼻識-鼻-香、舌識-舌-味、身識-身-触、意識-意-法」の6根-6境を分離、防御すること(見ているのに見ない、、)。五蘊とも関わる。

でも、なんとかがんばり、、、(^^ゞ

本日の一冊
昭和史講義」筒井清忠
鈴木大拙批判(?)『霊性』 ←どうも話が頭に入ってこなかった。プロジェクターの文字、見えなかったし。
出てきた単語: 如来思想 集諦(実体?どっち?)論 大乗起信論 初期仏教にはない(大乗後期に出)反集諦論 すべての現象は言語によって分節化されている(中論) 言語阿頼耶識
あーわからないorz 後で調べなくては。

今回のテーマ:
縁起のおさらいと「四食」。
テキストは「阿含経典第一巻」増谷文雄訳(筑摩書房)P.106~『7. バッグナ』
衆生を養い育てる四種の食物「段食」「触食」「思食」「識食」(だんじき、そくじき、しじき、しきじき)
四食の、一のほう。
仏教の思想、「主体を消去、主体を抜ききる」つまり「無我」を言ってる。無我(になる?の)が、理想だと。
難しかった。

比縁生(しえんしょう)
「これがあるときそれはある(static 論理)
 これが生じるからそれが生じる(時間的)」
「これがないときそれはない(static 論理)
 これが滅するからそれが滅する(時間的)」
比縁生を論理的と取るか時間的と取るか→ 決まっていない。(両方取る、とも)
苦の発達過程であるが、これはダルマ(真理)なのか?→No 輪廻も縁起も、否定するための対象、根本原理ではない

十二支縁起の「往観」「還観」。
(往観:生があるから老死がある 還観:無明があるから行がある)
これは去年も教わっており、この
往観-順観(何を縁として老死があるか、生を縁として老死がある。何に縁って生があるか、識を縁として生がある・・・)と
往観-逆観(何に縁って老死の滅があるか。生の滅に縁って老死の滅がある。何に縁って生の滅があるか、識の滅に縁って・・・)が、
仏陀(シッタールダ)の臨床体験であり、手順であり、分析であると。

これを後世、昇華したのが、
還観-順観(無明を縁として行がある。行を縁として識が・・・)
還観-逆観(無明の滅によって行の滅がある。行の滅によって・・・)
という後世に出てきたもの。

ちなみにダンナさんの感想:
てっちゃん、仏教思想を、どこから見ても論理的に破綻の無いようにしようとしてるんだな。
一人の思想が、宗教にまでなった、思想を文章に残した、というところを、隙間なく説明できるようにしている。
営業の仕事のよう、って(笑)

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仏教原論2019第3回

今回も、とてもおもしろかった。
おさらい。宮崎先生の講義(と釈先生、井上先生)に、配布されたプリントからの抜粋を散りばめて。と、前回のメモとかも。

南海キャンディーズ山崎さんと蒼井優さんの結婚話から。
「美醜ヒエラルキー(カースト)」という言葉があるなんて、という話。
文学作品などで、悪者や愚者はたいてい醜く、善人や賢者は美しい。
これは本能に根ざすもので、根源的。払拭するのは難しい、と。

で、仏教は、この「当たり前」を批判するもの。
生命進化への反逆。
遺伝子の乗り物(Vehicle)としての人間であることが、「苦」であると言ったのが仏教。「生存欲を滅ぼせ」

前回の縁起説のおさらい。

十二縁起
無明→行→識→名色→六処(六入)→触→受→愛→取→有→生→老死
というのは、洗練され定型化された縁起説。
が「十二支縁起=悟り」だったのではない。(縁起の滅・輪廻からの離脱が仏陀の思想)

三枝充悳
「悟りを”縁起”で説くことに強く反論する」(仏教新聞)
(仏陀の悟りは、十二支縁起によってではない)
 縁起説には 実相論(すべてのもののありのままのあり方を説いたもの)→天台系、縁起論(相対的)→華厳系 がある。
 十二因縁説は縁起説全体の一部。初期仏教中だと「ウダーナ」「律蔵」「大品」のみ。
 「相応部・雑阿含経『老死ー生ー…ー無明』」のほうが、自然的順序。人間の認知(認識)過程。

上座部と大乗では、縁起説の捉え方が違う(これは前回でも言及)

「ティク・ナット・ハンの般若心経」を読む。
#ここで受講者全員による般若心経の読経。ダンナさん無言(読めんかったらしい)。てっちゃん「仏説」から読み始めた(最後の「ぎゃーてー・・・」を単なる呪文、密教だ、と言ってたからそれに合わせてのことだと思う)
#ティク・ナット・ハンはベトナムの禅僧。師は政府に抗議して焼身自殺したティク・クワン・ドック。
#般若心経は、十二縁起を批判(否定)している。

 第十二章 すべては心がつくりだすもの――十二縁起 より抜粋
////ここから////
 ”相互に依存して生起し消滅する十二のつながりもまた、独立した実体ではない。”
 無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽
  十二のつながり(十二縁起)としてのニダーナ(因縁)の教えは多くの論書(経典の解説)に登場しますが、その目的はサンサーラ(輪廻)と、カルマ(業)の報いと、生まれ変わりのサイクルの説明です。しかしそこに書かれているのは、真理に対する便宜的な解釈(俗諦)のひとつであり、深遠な仏教の教えにはなじみません。だからこそ私たちは、因縁についての教えが究極の真理(真諦)へと導いてくれるように再解釈しなければならないのです。
  輪廻転生と因果応報の概念は、もともとブッダに由来するものではありませんでした。 //中略//
  カルマ信仰は、自分のすることが何であれ、その結果に苦しまねばならないとするものです。 //中略// 自業自得ということです。人は生まれ変わりのサイクルの中にあり、今世の行いによって来世は決まると信じられていました。人の体の中には不死の魂が存在していて、その肉体が朽ち果てると、魂はそこから離れ、新しい肉体を探すというのでした。輪廻のサイクルの教えは、魂の概念と相性がいいのです。これに対して、仏教では、不死の魂という概念を引き継ぎませんでした。仏教は、業と輪廻の教えを取り入れつつも、そこに重要な修正を行ったのです。
////ここまで////

 実体論的に十二縁起を捉えてきた(部派仏教の三世両重説)が、それは間違いである、と。(初期仏教へのアンチテーゼ)
 十二のつながり、十二縁起は一方向であり、相互作用ではない、と。
 十二支、これ自体が分別じゃないか、と。

ベトナム仏教は中国の影響を受けた。なのでティク・ナット・ハンは大乗仏教系。

ちなみに有支縁起は、スッタニパータではせいぜい3つしか支分がなく、宮崎先生はこれが最良だと。=愛→★(じゃく・字わからず)→苦
愛(生存本能・フロイトで言う生の欲動)→じゃく(執着)→苦 じゃくと苦の間に「無常」がある。

ふりかえりと言葉の補充など
 無明(むみょう):人間の根本煩悩、生存本能、無知
 行(ぎょう):生活行為、意志作用、業が生み出されて?
 識(しき):認識作用
 名色(みょうしき):精神的な存在と物質的な存在、認識の対象となるもの
 六処(ろくしょ)眼耳鼻舌身意、6つの感覚器官
 触(そく):6つの感覚器官が感受対象に触れること
 受(じゅ):感受作用
 愛(あい):渇愛、本能的欲望
 取(しゅ):執着
 有(う):生存
 生(しょう):誕生
 老死(ろうし):老いて死ぬという耐え難い苦悩
 名色の色は分別、名色は言語による分別
 ティク=釈とのこと。 釈先生はティク先生(笑)
 三世両重 無明→行の行を業と訳すところが間違い、という指摘あり。
 無明→行:過去(因)
 識~受:現在(果)
 受~有:現在(因)
 生→老死:未来(果)
  余談:キリスト教の「愛」について、アガペを愛と訳しているが、どうよ?という話あり。
 口伝は正確に伝わったのか?という質問に対して、井上先生が「大勢の弟子たちが読み合わせることで(結集)で、間違いの検証機能が働いく」他の先生方も「書物になったほうが不正確かも」と。
 
宮崎先生まとめ
 十二支縁起それ自体が"言語による分別"じゃないか?
 初期仏典といえども「教相判釈」される必要がある、と、てっちゃん。(心で拍手)

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