カテゴリー「仏教」の記事

仏教原論2019第6回

ダンナさんと行ってきた。
ダンナさんと行って楽しめるところは、捉え方の違い。
私はただ単純に「面白いなぁ」と講義を聞くだけ。
なんだけど、ダンナさんは「わからない、わからなさすぎる」と言いながら、今日の話「あれは『犬』だな」と言ったりとか。
犬は言語を持たない。。でもなんで猫じゃなくて犬?って聞いたら「鼻が利く」とか何とか。へー?

で、今日のテーマは「言語」。

有支縁起は最初、支分が少ない→後世に多くなってきて、十二支縁起になった。
最初は行、識から。
最古層の金句の直説では渇愛(タンハ)から。(五支縁起:愛→取→有→生→老死)その渇愛はどこから?(=認識論)
仏教の認識論:西欧の認識論と存在論の区別がない。(ちなみに唯識派は認識論に近くアビダルマは存在論に近い)

六根、十二処、十八界の図解
(講義で使われた図はもっとシンプル、下のメモ参照)
「苦をなくすプロセス
1.物事は十八界の接触によって起こる
2.それによって現れるすべてのものは無常であり苦である。
3.つまり十八界にこだわりがなくなれば苦は生じなくなる。」ー 大乗仏教(唯識・中観)以降、これを強化するものが『言語』

今日のプリント:
スッタニパータ 第三章 大いなる章 12:二種の監察 <756>、<757>、第四章 八つの詩句の章 2:争闘 <867>、<874>
中村元訳とパーリ語文、参考に他の学者の訳を並べて読む。これがとても難しい。

名(nāma)と色(rūpa)
nāmarūpasmiṃ(名色に)を、中村元先生は<名称と形態>(個体)と訳、意味は「精神と体」
井上先生は絵を描いて説明:「りんごの木」、それが[A](色 rūpa)、人がそれを眼で見て(受)、人の脳の中で「りんごの木」を想うとき、それは[A’](色+行)なのだが、A=A’だと無意識に認識(識)

874偈は唐井隆徳訳がわかりやすかった→「想うのでもなく、誤って想うのでもなく、想わないのでもなく、想いを滅したのでもない。このよう[な境地]に結びついた者にとって、色は滅する。なぜなら、妄想によって[色を]名付けることは想いを因とするからである。」
→「想い」を否定(絶対否定)している。妄想=戯論(中観派は、空見と言って空を実体視してしまうことすら否定する)

メモ:(プロジェクター)https://www.evernote.com/l/ACbhZsulFkVPkY50p7vkd5hu6fsk5H2DKPI/

メモ:「旋火輪(せんかりん)」空を表す。今日で言う、静止画を集めると動画になるみたいな。量子力学みたいな?

今日の雑談:
哲ちゃん、本居宣長ほどじゃないけど、自分の葬式を(どうするか・どうなるか)ふと想うのでした。哲ちゃんの奥さんはボーン・クリスチャン(驚)結局葬式は自分のためじゃなく残された人のためのものだと。

と。まず講義の最初らへんに言ってたこと→「世界」っていう岩波のリベラルな本9月号に寺島実郎が”脳力のレッスン”で仏教のこと書いてるんだけど、それ、あかんやつらしい。まずい仏教理解だと。『応無所住・而生其心』は『空』と言う概念とは違うし(佐々木閑は「フラクタルのようなもの」と言っているらしい)、『空』と『ゼロ』を同じものとしてるなんて仏教の本質から逸脱してる。

中論は英語のほうが理解しやすいとのこと。哲ちゃんは愛読しているらしい。すご。

と、忘年会があるらしい。行きたいけど、ダンナさんは「ヤだ」って、他人と話すのが嫌だと。

帰りに神泡屋。そこでサイコロを振ったら、2人ともゾロ目が出て、ビール一杯無料券もらった。
中秋の名月、だけど、満月は明日。

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仏教原論2019第5回

ダンナさんと行ってきた。

今日の1冊は「仏教入門」南直哉。
てっちゃんは院代に「仏教の基本書を書くべき」と早くから言ってたそう。
直球の仏教書。特に中論を巡る議論は鋭く、中論が「言語批判」、相依縁起を語っている、など、全面的に同意するとのこと。
ただ、「輪廻は要らない」は、どうかな、、だそうです。
※よくわからなかったところ→相依縁起(A⇔Bと相互に縁る、となると、AやBに自性が存在することになる。こういう図式は言語の構造である。言語は人類の第二の本能、根源的慣習。例えば「私」は言語により実体があるように思えるが、実は否定しなくてはいけない、というのが中論。)

で、今日は「怪談とほとけ」について。
怪談は仏教説話に近い、と。
かさねがふち(累ヶ淵)
四谷怪談の原型とも。
典型的な因縁話。
日本人はこういう怪談話を通して因縁話(仏教説話、なので話の終わりは「解脱」という救いがある)を聞いてきたのでは。

ところで怪談につきものの「霊」について。
今回の主題は「霊」、いったい霊とは何か。霊性・霊魂・亡霊・怨霊・・・
仏教には中有(ちゅうう)という考え方がある。(四十九日のこと)
死んですぐ後有(ごう)[の世界]に行ければ、霊は存在しない。
ちなみに、中有を認める仏教と認めない仏教があるらしい。説一切有部は認める、上座部は認めない、チベット仏教は認める・悟りの鍵・・・
インドにはガンダルヴァという霊のようなものがいるらしい。香りを食べるので「食香」と呼ばれる。そう言えば故人は香食、線香を絶やさないようにするね。

閑話休題。

ブッダは中有などというものは「ない」と言っている。(マッジマ・ニカーヤ第38経「大愛人経」・プリント参照)
縁がなければ識の生起はない。(識を輪廻する魂と見ている弟子に、こう言った)
つまり「識」≠「霊」
死んでも心が続く欲求は生存欲求、心が続く限り「私(実体)」は常住という本能。(中論は言語批判)

霊性とか霊知は、人間の生存欲に根ざしている。
 ちなみに 有愛(ヴァータンハ・生存欲)、欲愛(カーマタンハ・気持ち良い欲)、無有愛(ヴィバワタンハ・存在しない欲、自分を消したいという欲望)のうち、無有愛なんて、仏教の深いところ。

では「輪廻」は?
(和辻哲郎のプリント参照)
凡人には輪廻がある(無我を悟っていないから)
聖者(如来など)には輪廻はない(無我を悟っている)

道元「正法眼蔵」弁道話より(プリント参照)
身心一如にして性相不二なり(体と心はひとつ、私と世界はひとつ)→心性(霊魂)の常住(不滅)を批判している。
この弁道話の強い口調は、道元が浄土宗(法然)が仮想敵だから(笑)

最近の哲学
「思弁的実在論」が流行ってきている。(マルクス・ガブリエル)
個物は存在するが世界は存在しない。

残留思念の話
「姑獲鳥(うぶめ)の夏」」京極夏彦
在るか無いか。存在論。オントロジー。→ てっちゃんはこの話もしたかったけど、時間切れとなり。

釈さん、井上先生との会話より
仏教は人類の知恵の結晶
そして霊。
という字は祭壇から来ている=儀礼
霊を祀る:「死」の受容の一形態、→ 共同体は霊を必要としている? → 霊は共同幻想!(笑)

帰りに梅田の「神泡屋」に寄った。

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仏教原論2019第4回

ダンナさんと行ってきた。
車、失敗。五十日で道が混んだ。着いたのは5分前という。。
で、着席したのが後ろの方だったので、プロジェクターの文字が見えづらかった。
最初に十二支縁起の「三世両重」とか「胎生学的縁起観」という話が出てきて引いてしまったし。
それって、不変の実体が次の世に生まれ変わる輪廻観でしょ。
どうもこういうファンタジーにはついていけない。
(後に「往観」出てきて、納得。縁起や輪廻は滅するのが理想、と。)

参考:「仏法」ポーパユット テーラワーダ仏教 サンガP.131~133に十二支縁起、初期の仏教に近くしかも現代的
認識過程が苦の根源、無くすためには滅していくこと。
仏教の認識の鍛錬(理想)は、「6識-6根-6境(眼識-眼-色、耳識-耳-声、鼻識-鼻-香、舌識-舌-味、身識-身-触、意識-意-法」の6根-6境を分離、防御すること(見ているのに見ない、、)。五蘊とも関わる。

でも、なんとかがんばり、、、(^^ゞ

本日の一冊
昭和史講義」筒井清忠
鈴木大拙批判(?)『霊性』 ←どうも話が頭に入ってこなかった。プロジェクターの文字、見えなかったし。
出てきた単語: 如来思想 集諦(実体?どっち?)論 大乗起信論 初期仏教にはない(大乗後期に出)反集諦論 すべての現象は言語によって分節化されている(中論) 言語阿頼耶識
あーわからないorz 後で調べなくては。

今回のテーマ:
縁起のおさらいと「四食」。
テキストは「阿含経典第一巻」増谷文雄訳(筑摩書房)P.106~『7. バッグナ』
衆生を養い育てる四種の食物「段食」「触食」「思食」「識食」(だんじき、そくじき、しじき、しきじき)
四食の、一のほう。
仏教の思想、「主体を消去、主体を抜ききる」つまり「無我」を言ってる。無我(になる?の)が、理想だと。
難しかった。

比縁生(しえんしょう)
「これがあるときそれはある(static 論理)
 これが生じるからそれが生じる(時間的)」
「これがないときそれはない(static 論理)
 これが滅するからそれが滅する(時間的)」
比縁生を論理的と取るか時間的と取るか→ 決まっていない。(両方取る、とも)
苦の発達過程であるが、これはダルマ(真理)なのか?→No 輪廻も縁起も、否定するための対象、根本原理ではない

十二支縁起の「往観」「還観」。
(往観:生があるから老死がある 還観:無明があるから行がある)
これは去年も教わっており、この
往観-順観(何を縁として老死があるか、生を縁として老死がある。何に縁って生があるか、識を縁として生がある・・・)と
往観-逆観(何に縁って老死の滅があるか。生の滅に縁って老死の滅がある。何に縁って生の滅があるか、識の滅に縁って・・・)が、
仏陀(シッタールダ)の臨床体験であり、手順であり、分析であると。

これを後世、昇華したのが、
還観-順観(無明を縁として行がある。行を縁として識が・・・)
還観-逆観(無明の滅によって行の滅がある。行の滅によって・・・)
という後世に出てきたもの。

ちなみにダンナさんの感想:
てっちゃん、仏教思想を、どこから見ても論理的に破綻の無いようにしようとしてるんだな。
一人の思想が、宗教にまでなった、思想を文章に残した、というところを、隙間なく説明できるようにしている。
営業の仕事のよう、って(笑)

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仏教原論2019第3回

今回も、とてもおもしろかった。
おさらい。宮崎先生の講義(と釈先生、井上先生)に、配布されたプリントからの抜粋を散りばめて。と、前回のメモとかも。

南海キャンディーズ山崎さんと蒼井優さんの結婚話から。
「美醜ヒエラルキー(カースト)」という言葉があるなんて、という話。
文学作品などで、悪者や愚者はたいてい醜く、善人や賢者は美しい。
これは本能に根ざすもので、根源的。払拭するのは難しい、と。

で、仏教は、この「当たり前」を批判するもの。
生命進化への反逆。
遺伝子の乗り物(Vehicle)としての人間であることが、「苦」であると言ったのが仏教。「生存欲を滅ぼせ」

前回の縁起説のおさらい。

十二縁起
無明→行→識→名色→六処(六入)→触→受→愛→取→有→生→老死
というのは、洗練され定型化された縁起説。
が「十二支縁起=悟り」だったのではない。(縁起の滅・輪廻からの離脱が仏陀の思想)

三枝充悳
「悟りを”縁起”で説くことに強く反論する」(仏教新聞)
(仏陀の悟りは、十二支縁起によってではない)
 縁起説には 実相論(すべてのもののありのままのあり方を説いたもの)→天台系、縁起論(相対的)→華厳系 がある。
 十二因縁説は縁起説全体の一部。初期仏教中だと「ウダーナ」「律蔵」「大品」のみ。
 「相応部・雑阿含経『老死ー生ー…ー無明』」のほうが、自然的順序。人間の認知(認識)過程。

上座部と大乗では、縁起説の捉え方が違う(これは前回でも言及)

「ティク・ナット・ハンの般若心経」を読む。
#ここで受講者全員による般若心経の読経。ダンナさん無言(読めんかったらしい)。てっちゃん「仏説」から読み始めた(最後の「ぎゃーてー・・・」を単なる呪文、密教だ、と言ってたからそれに合わせてのことだと思う)
#ティク・ナット・ハンはベトナムの禅僧。師は政府に抗議して焼身自殺したティク・クワン・ドック。
#般若心経は、十二縁起を批判(否定)している。

 第十二章 すべては心がつくりだすもの――十二縁起 より抜粋
////ここから////
 ”相互に依存して生起し消滅する十二のつながりもまた、独立した実体ではない。”
 無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽
  十二のつながり(十二縁起)としてのニダーナ(因縁)の教えは多くの論書(経典の解説)に登場しますが、その目的はサンサーラ(輪廻)と、カルマ(業)の報いと、生まれ変わりのサイクルの説明です。しかしそこに書かれているのは、真理に対する便宜的な解釈(俗諦)のひとつであり、深遠な仏教の教えにはなじみません。だからこそ私たちは、因縁についての教えが究極の真理(真諦)へと導いてくれるように再解釈しなければならないのです。
  輪廻転生と因果応報の概念は、もともとブッダに由来するものではありませんでした。 //中略//
  カルマ信仰は、自分のすることが何であれ、その結果に苦しまねばならないとするものです。 //中略// 自業自得ということです。人は生まれ変わりのサイクルの中にあり、今世の行いによって来世は決まると信じられていました。人の体の中には不死の魂が存在していて、その肉体が朽ち果てると、魂はそこから離れ、新しい肉体を探すというのでした。輪廻のサイクルの教えは、魂の概念と相性がいいのです。これに対して、仏教では、不死の魂という概念を引き継ぎませんでした。仏教は、業と輪廻の教えを取り入れつつも、そこに重要な修正を行ったのです。
////ここまで////

 実体論的に十二縁起を捉えてきた(部派仏教の三世両重説)が、それは間違いである、と。(初期仏教へのアンチテーゼ)
 十二のつながり、十二縁起は一方向であり、相互作用ではない、と。
 十二支、これ自体が分別じゃないか、と。

ベトナム仏教は中国の影響を受けた。なのでティク・ナット・ハンは大乗仏教系。

ちなみに有支縁起は、スッタニパータではせいぜい3つしか支分がなく、宮崎先生はこれが最良だと。=愛→★(じゃく・字わからず)→苦
愛(生存本能・フロイトで言う生の欲動)→じゃく(執着)→苦 じゃくと苦の間に「無常」がある。

ふりかえりと言葉の補充など
 無明(むみょう):人間の根本煩悩、生存本能、無知
 行(ぎょう):生活行為、意志作用、業が生み出されて?
 識(しき):認識作用
 名色(みょうしき):精神的な存在と物質的な存在、認識の対象となるもの
 六処(ろくしょ)眼耳鼻舌身意、6つの感覚器官
 触(そく):6つの感覚器官が感受対象に触れること
 受(じゅ):感受作用
 愛(あい):渇愛、本能的欲望
 取(しゅ):執着
 有(う):生存
 生(しょう):誕生
 老死(ろうし):老いて死ぬという耐え難い苦悩
 名色の色は分別、名色は言語による分別
 ティク=釈とのこと。 釈先生はティク先生(笑)
 三世両重 無明→行の行を業と訳すところが間違い、という指摘あり。
 無明→行:過去(因)
 識~受:現在(果)
 受~有:現在(因)
 生→老死:未来(果)
  余談:キリスト教の「愛」について、アガペを愛と訳しているが、どうよ?という話あり。
 口伝は正確に伝わったのか?という質問に対して、井上先生が「大勢の弟子たちが読み合わせることで(結集)で、間違いの検証機能が働いく」他の先生方も「書物になったほうが不正確かも」と。
 
宮崎先生まとめ
 十二支縁起それ自体が"言語による分別"じゃないか?
 初期仏典といえども「教相判釈」される必要がある、と、てっちゃん。(心で拍手)

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仏教原論2019第2回

ダンナさんと。
私より、ダンナさんのほうがちゃんと聞いてるかも?
私、ノート取るのに一生懸命(^^ゞ

メモは後ほど。。

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仏教原論2019第1回"平成最後"()

今年も仏教原論。金曜日の夜に替わり。
今回はダンナさんも一緒に受講。

今回はオリエンテーション、この先(今日も含めて11回)のイントロということ。
・四聖諦(苦諦、集諦、滅諦、道諦)=仏教の根本
・教科書として『ごまかさない仏教』『仏教論争』

今日の一冊『100万回生きたねこ』佐野洋子 てっちゃんは仏教説話と捉えている。(釈さんはそれを「面白い」と)

最後にねこが死んでしまうというのに、良かった、と思えるのはなぜか?
前世を知りながら何度も生まれ変わる、つまり永遠の命、これも『苦』と捉える、という。←仏教的

・輪廻転生を繰り返すねこ「しぬのなんか へいきだった」*ここ重要(『死』は悪いものという近代的死生観から乖離している)
・飼い主(他者)は、ねこが死ぬと悲しむ。(自分の死は他者にしかわからない)
・ねこが、のらねこになると(誰のものでもなくなると)『生』を獲得=自我~自尊~自愛の意識に囚われる(煩悩)
ちなみに、「過去世の記憶を全て持っている」というのは仏陀と同じ(前生譚)
・ねこが白いねこと一緒になり子供を持ち、他者を大事に思うというのは、自愛の否定や、他者と自分という関係性(縁起)
いつまでも生きていたいと『生』への執着(まだ煩悩)
・白いねこが動かなくなり(本当の死を知り)100万回も泣き(苦しみ)
自論ここから→・夜になって 朝になって が 朝になって 夜になって に変わるところは悟り~俗世に戻る感じ
 ・ある日のお昼に(中論)
 ・ねこはなきやみました ねこは白いねこのとなりでしずかにうごかなくなりました。(自分の死を他者が見たらこれ ねこは自分の死を見れない)←自論ここまで
・ねこはもうけっして生きかえりませんでした。(涅槃、生天)← ところが後で釈先生が「涅槃は無理、ねこだから」と言って教室内が湧いた(笑)
・最後のページの絵にはねこがいない(不在):仏教にとって、輪廻転生は否定対象。生き返らないこと(涅槃)が理想(大般涅槃経)
釈先生→・この童話では誰それという名前が出てこない。固有名詞は近代自我の特徴、名前は自我を強める装置。

と。
四聖諦とかの『諦』とは?真理?まとめ?あきらめ?…で語源は?…という話になって、宿題に。
これは興味深い。

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坐禅初体験

南直哉院代の講座に行ってきた。
今日はお話を聞いた後、別に坐禅の体験があって。
股関節硬いのに、膝痛いのに、本当にできるのか?…という重い気持ちで参加してみた。

結果、参加してよかったと思う。
曹洞禅の作法と流れ

股関節が固く、結跏趺坐どころか半跏趺坐すらできない(膝が床につかない)人は「諦めてください」なんだけど、縦半分に折った座布団に跨るようにしてお姉さん座り(とにかく膝を床につけること・3点で体を支えることが大切)をすれば、形はともあれ、坐禅ができる。嬉しい。
股関節の外旋がきついから内旋にしてしまう。。(^^ゞ という坐禅は新鮮だわー。

20分座った。
始まってすぐ、親指がついてるかついてないかの感覚がなくなった。
時々目を閉じそうになったけど、寝てない。「起きてる」と「寝てる」の間な感じ。でも金縛りとは違う。。
何も考えないようにと考えるのも雑念だから、思い浮かぶものは振り払わないでやり過ごす感。

何だろう、気持ちいい。
毎日10分でもいいからやってみなさいとのこと。
できるかな。

考えたらすごい経験だわ。
あの南直哉院代直々に、坐禅を教わるなんて~(^o^)
一緒に体験した女の人たち、倉敷、明石、滋賀からとか、結構遠くから来ておられたのもわかる。

と。
この日の講演、メモしたのを写すのがしんどいので、他人のをお借りします。
南直哉師の「よく生きる」ことの解答とは

追記:坐禅(座禅)で使う坐蒲(座蒲)の豆知識 ~選ぶポイントや手入れの仕方など~

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公開講座へ

カテゴリー、仏教じゃないけど宗教関連。
相愛大学人文学部の公開講座を受講。
今日は無料なのでダンナさんを誘ってみたら、一緒してくれた。

釈先生による「宗教の共存について考える」
レジュメに沿って、とても分かりやすい講義。
釈先生ご自身の経験も有り。

宗教を総括的に勉強する機会は無い。ほとんど。
(行ってた学校で「宗教学」取ったけど、何やってたか全然覚えていない)
ましてや、それぞれの(伝統)宗教の共存なんて、凡夫だし語れない。
ただただ、釈先生の話に頷くばかり。

違う宗教(文化)がわかり合うなんて無理。が、学ばないより学ぶほうが良い。
理解や共感とかを前提にするのも無理。
共存と言うより、呼応。それも時間をかける(先送り、棚上げ)こと。
無宗教と言う人だって何かの文化の中で育っているのだから、当事者意識を持つべき。
信仰を持つものは加害者意識を持つべき。
簡単じゃない。

これから移民政策で在留外国人が増える。
日本は多文化多宗教に対応できるのだろうか?

しかし、受講しているのはおおよそじじばば世代。
せっかく問題意識が芽生えても、積極的に社会活動できる年齢層じゃない。
若い人はこういう勉強会に参加しないかな。

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仏教原論第11回’18(今期最後の授業)

仏教は、人を救う考え方。
なのに、なんてパンキー(笑)

佐々木閑先生は「大乗仏教は非仏説」と言ってるが、てっちゃんは「ブッダの教え」と。
その根拠。

という講義。(内容は濃く、熱かった)

今日のプリント:
「大乗般若経」より第十六章 阿闍世王の病と苦悩 のところ(先月のおさらい)
「ブッダ神々との対話‐サンユッタ・ニカーヤI」中村元訳・岩波文庫 第II篇 第三章 種々なる異学 第六節 『赤い馬』(九偈 …世界そのものと、世界の生起と、世界の止滅と、世界の止滅にみちびく道… が四諦(四聖諦)に通じる)
「ブッダのことば」中村元訳・岩波文庫 第四 八つの詩句の章 『一一、争闘』(874:「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。――このように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起こるからである。」→これは「縁起」に展開していくと思っている(宮崎) この874は中論に出てきそうだ、とてっちゃん。

私としてはもっと龍樹の空の話を聞きたかったけれど、「仏教原論」なので、初期仏典から原始仏教(と大乗仏教)を探る講義が多かった。
来期も講義があるので楽しみ。
実践編が多くなる予想(受講生の希望から?)

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仏教原論第10回’18

仏教原論(原始仏教と大乗仏教)
ノートからの書き写し、したいところだけど、今日は無理。

佐々木閑先生の新しい「大乗仏教 ブッダの教えはどこへ向かうのか」NHK出版新書 がたぶんほぼテキスト。
読まなくちゃ。

と。
ウォークマン、修理(というか交換)に8500円+税 な値段がかかりそう。
なので、新しいのを買うのと同じ。
ダンナさん、もう買ってくれないだろうなorz

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