仏教

仏教原論今期最後の授業

仏教は、人を救う考え方。
なのに、なんてパンキー(笑)

佐々木閑先生は「大乗仏教は非仏説」と言ってるが、てっちゃんは「ブッダの教え」と。
その根拠。

という講義。(内容は濃く、熱かった)

今日のプリント:
「大乗般若経」より第十六章 阿闍世王の病と苦悩 のところ(先月のおさらい)
「ブッダ神々との対話‐サンユッタ・ニカーヤI」中村元訳・岩波文庫 第II篇 第三章 種々なる異学 第六節 『赤い馬』(九偈 …世界そのものと、世界の生起と、世界の止滅と、世界の止滅にみちびく道… が四諦(四聖諦)に通じる)
「ブッダのことば」中村元訳・岩波文庫 第四 八つの詩句の章 『一一、争闘』(874:「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。――このように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起こるからである。」→これは「縁起」に展開していくと思っている(宮崎) この874は中論に出てきそうだ、とてっちゃん。

私としてはもっと龍樹の空の話を聞きたかったけれど、「仏教原論」なので、初期仏典から原始仏教(と大乗仏教)を探る講義が多かった。
来期も講義があるので楽しみ。
実践編が多くなる予想(受講生の希望から?)

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原始仏教と大乗仏教

仏教原論
ノートからの書き写し、したいところだけど、今日は無理。

佐々木閑先生の新しい「大乗仏教 ブッダの教えはどこへ向かうのか」NHK出版新書 がたぶんほぼテキスト。
読まなくちゃ。

と。
ウォークマン、修理(というか交換)に8500円+税 な値段がかかりそう。
なので、新しいのを買うのと同じ。
ダンナさん、もう買ってくれないだろうなorz

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仏教原論(教行信証)

かっちゃんの件がショックだと、まず言われて。
「お酒には気を付けましょう」と。アルコール性肝炎は発覚した時にはもう手遅れですと。

で、今日の講義内容は「教行信証」から。
真宗系の学校で、やっと親鸞が出てきた。

教行信証は略称、正式には顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)
三 より

阿闍世(あじゃせ)王の話。 wiki コトバンク

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いのちのセミナー

以前、Twitterで検索かけて拾った情報により、今夜のセミナーに参加できて行ってきた。
2018年度第7回いのちのセミナー 講演「魂のゆくえ」 講師:南直哉

このセミナーは、あの平成17年JR福知山線脱線事故を踏まえ、安全基盤形成に関する研究助成や社会福祉団体等への寄付を含めて、平成21年4月に設立したJR西日本あんしん社会財団が、一般の人を対象とした心のケアへの取り組みなど、社会に役に立つ取り組みとして開催している、とのこと。

で、依頼され、南直哉が登壇。
抽選に当たった。嬉しい。(かなりの応募数だったらしい)

講演の内容
院代の自己紹介から始まって。
落語を聞いているような軽快なお喋りで笑いを誘い、聞く人を引き込んでいく。
最後は「魂」について。

残った言葉
自分一人で結論が出ることは些末な事。
3.11以降、生きている感覚が変わった。「当たり前に安全」など無い、と「なぜ私はここにいるのか、なぜ私が生まれてきたのか、わからない」。
生まれた根拠や意味など無い。
(生死は)誰かを通してしかわからない。
人を許す→人を許す自分を許す、ということ。
幽霊は無いけど魂はある。
魂は生きる意味と価値。人との関係で育まれる。「生」に重み・重力を与える。
無条件に自分を受け止めてくれる人がいることが重要。
死者はなくならない。「いる」。人の「生」に食い込んでいる。
大切な人:我々の魂(生きる意味と価値)を育ててくれる人
「生」に意味があるのは「死」があるから。

師の仏教関連書籍と違い、一般の人達に話すとき、こういう話になるのだな。
「魂」「大切な人」など、ちょっと今までの話と毛色が違う。

余談
直哉(じきさい)は師匠が「音読み」で良いじゃないか、で、ついた名前。ご実家では「なおちゃん」。
と。司会者が本の題名を「ちょうえつとじつざい」と言ってしまったけど、訂正なし(というか、誰も?気づいていなかった)

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自死に近い死

人はいつ、「死」について考えてみる気が起こるんだろう?

今日未明かっちゃんが亡くなった。
急性肝炎(劇症肝炎?)で入院してからも、酒を飲み続けていたとの話も。
(それを知っている?)てっちゃんが「自死に近い死だったと思う」とコメント。

ちょうど「『死』とは何か」 Shelly Kagan イェール大学で23年連続の人気講義 という本を読み終わるところだった。
まったく偶然にも、読んでいた最後の第9講は「自殺」。
読みながら、かっちゃんの事ばかり考えていた。
かっちゃんってもうずっと長いこと、もしかしたら病気になるもっと前から、死と向き合ってた人なんだろうなぁと思う。

「死」とは何か 抜き書きメモ:
死についての最終講義 より
(ボールドになっているところは実際は・で強調されている)
***ここから***
 魂など存在しない。私たちは機械にすぎない。もちろん、ただのありきたりの機械ではない。私たちは驚くべき機械だ。愛したり、夢を抱いたり、創造したりする能力があり、計画を立ててそれを他者と共有できる機械だ。私たちは人格を持った人間だ。だが、それでも機械にすぎない。
 そして機械は壊れてしまえばもうおしまいだ。死は私たちには理解しえない大きな謎ではない。つまるところ死は、電灯やコンピューターが壊れうるとか、どの機械もいつかは動かなくなるといったことと比べて、特別に不思議なわけではない。
 (中略)
 そんなわけで、死について考えるとき、死を深遠な謎と見なし、恐ろしくて面と向かえず、圧倒的でぞっとするものと捉えるのは適切ではない。適切ではないどころか、死に対する比類なく合理的な応答にはほど遠い。思うに、死を恐れるのは不適切な対応だ。
***ここまで***

訳者あとがき より 抜き書きメモ
***ここから***
 さて、著者は本書の目的について、こう述べている。
「大切なのは、みなさんが自ら考えることだ。突き詰めれば、私がやろうとしているうちで最も重要なのは、死をしっかりと凝視し、私たちのほとんどがけっしてしないような形で死と向き合い、死について考えるよう促すことだ」
「(中略)・・・みなさんが最終的に同意するかどうかよりも大切なことがある。それは、この機会にみなさんが自分の信念を批判的に検証できたかどうか、つまり、何が真実であることを自分が望んだり、願ったり、当然だと思ったりしているかだけでなく、何が実際に擁護できるかも自問することができたかどうかだ」
***ここまで***

(全然仏教的じゃないけどこれ哲学だから~、な)表紙カバーより
***ここから***
どのような生き方をするべきか?
”誰もがやがて死ぬ”ことがわかっている以上、
この問いについては慎重に考えなければなりません。
どんな目的を設定するか、
どのようにその目的の達成を目指すか、
念には念を入れて決めることです。

もし、死が本当に”一巻の終わり”ならば、
私たちは目を大きく見開いて、
その事実に直面すべきでしょう。
――自分が何者で、
めいめいが与えられた”わずかな時間”を
どう使っているかを意識しながら。
***ここまで***
あー、これ、要らんかな。。

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仏教原論行ってきた

まとめは、Tさんのブログ待ちにしよう。。
ボードの文章を全部書き写しきれなかった。
シャッター音が聞こえ、てっちゃんもそれに反応。
どうやら写真OKだったらしいorz

追記:素晴らしいTさんのブログ→ http://kotobanotsumugishi.seesaa.net/article/bukkyougenron20181110kougi.html

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仏教原論第6回

輪廻について。

の前に一冊(今日は2冊だった)
「超越と実存」南直哉
「初期仏教」馬場紀寿

南直哉院代の話は出ると思ってた。
週刊文春の時々砲弾313★INTERLUDE:友の受賞のプリント(文春に載ったより洗練されたものだそう)をもらった。
てっちゃんと南師は、一緒に飲み食いするような間柄じゃなく(一度もないらしい)、仏教の同じ部分(「死とは何か」「私が私である根拠は何か」という問いを最も深く問い抜き得る)に共感した間柄 ということ。
ブッダも必要だと教えた、仏道の同伴者(賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者)にあたる。
あと、「超越と実存」の序章・問いの在りか と 「仏教論争」 がリンクする部分 の説明。
・「諸行無常」は自己の存在の無根拠性と解釈。が、人は本能的に根拠を求めてしまう。仏教とて。「超越」的概念が仏教に侵入し、思考の枠組みを変えてしまう。しかしこれら「超越的理念」を存在の根拠or実体と措定すると、仏教の核心的考え方を見えなくする。
・仏教の最大の課題は言語の批判にある。 言語の「超越性」や「本質」性は錯覚にすぎない。(ブッダは)この「必要不可欠な虚構」が苦という原本的疎外の促進因であることを知っていた。

「初期仏教」はてっちゃんの仏教論争の前提的知識として、前に読めばよかったところの書であると。
・「輪廻」を「自己の再生産」という。←おもしろい
・インドの伝統宗教をひっくり返すことで仏教が成立した。

仏教以前の宗教を紹介。

ヒンドゥー教では「アーリヤ」=「高貴」バラモン・クシャトリア・ヴァイシャ 再生族(ドビジャ)に対して 一生族(エーカジャ)シュードラ
これを、仏教は概念を反転させた。輪廻から外れたものがアーリヤであると; アムリタ(不死) 一生族
成仏=再生しない
(再生に関して言うと、イスラム圏には死後を意味あるものにするという宗教的意義を持つ人が多い)

とここから輪廻の話。
マッチポンプ

日本にはもともと輪廻の概念はなく、仏教によってもたらされた考え方なので、輪廻=仏教、という誤解
縁起と構造が同じ。(いつしか順観そのものを仏教という誤解)

縁起を滅すること、輪廻を滅すること が仏教の理想。(多分、今日のまとめはこれかな?)

休憩の後の釈先生との会話は、まとめられるほどにはついていけなかった。

最後にてっちゃんは中観派の中でも帰謬派だということ。(もうひとつは自立論証派)
破邪顕正(はじゃけんじょう)は右翼なんかが間違った使い方をしてるらしい。
意味は「誤った見解や囚われを避けると、自ずと正しいものが見えてくる(てっちゃん)」と。
とらわれない、だわね、本能やそれを強化してしまう言語に。

それと。(余談)
てっちゃんは怪談コレクターだそう。
あと、釈先生に「字、あまりにきたない」と言われ。釈先生はてっちゃんを見ながらでもボードに字を書ける。(長年の教師生活が、、という話)
総裁選は安倍首相の圧倒的勝利になるだろうと。が、来年の参院選で2/3取れなかったら、憲法改正まで到達できないから東京五輪後に辞任するかも。参院選がみそ、とのこと。
釈先生から、土曜日は法要が多いので、授業を金曜日の午後に変えてほしいとのお願いが。来年もてっちゃんの講義はあるみたいだけど、金曜日になるかも。
かっちゃんの話は出なかった。

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仏教原論(何回目?)

先月は大雨で中止。その前は公演を見に行ったので欠席。
中2月あいて、今日、久しぶりの仏教講座。

てっちゃんはその大雨の日、福知山で足止めを食らってたそうで。(どこに行ってたの?)
京都に行く道がないという道路標示が出たと。
と。ひざを痛めたらしく、ぴょこぴょこ痛そうにしてた(ので、動き回らなくていいです:汗)。

今日のテーマは日本の大乗仏教。
メモ6ページ分から少し抜粋。

世界価値観調査で、宗教の意義を問うたもの (宗教の基本的意義 宗教の意義は死後か現世か 死後を意味あるものにするか、現世か) 日本は、死後も低いが、現世も少な目。
仏教は「死後」を認める(輪廻観) が、意味あるか?教理とは別問題、苦が続く。
因果応報 日本は仏教教理は浸透しないが因果応報は民話や言い伝えに多い。→(職業)差別を生んだ。
初期仏教には逆を書いてあるものもある。教相を判釈していかなければいけない。

今日の一冊「なぜ今、仏教なのか」ロバート・ライト 科学、社会生物学、進化心理学 ダマシオ、シンガー、セリグマンが推薦 ハヤカワ
欧米の理科系が仏教に興味 仏教ルネッサンスな動向
Vipassanā Vi:ありのままに・客観的に Passanā:感ずる 今の自分の状態を観照する
瞑想 物事に反応しないように観察する、カッコ入れする、見ながら見ない…
仏教を修習するとは、内在的には生命進化論への反逆(宮崎)
本能や感情は進化によって作られ、言語に誘導され、執着。これが苦の原因だから、それを(論理的に)滅するということは進化論への反逆だと。
進化:結果論(無目的的に起こる、自然選択によって作られる)→言語(第二の本能)によって強化される。
そのエビデンスとして、「なぜ今、仏教なのか」
仏教は特別、ユニークなプロジェクト。感情・感覚からの解放。特異的、進化心理論

で、大乗仏教

仏陀は何に目覚めたのか
生の実相は「苦」→ 世界の構造は「縁起」「無常」「無我(方法に入るかも?)」→ 解放される方法「中道」「四諦」「八正道」

大乗仏教の縁起説 「相関」「相依(そうえ)」「相待(そうたい)」 森羅万象自性(実体性)を持つものはない、すべては縁によって繋がっている 無自性
(一般に日本で縁起というと、大乗仏教の縁起を言う)

佐々木閑 大乗非仏教説(大乗仏教は初期仏教と別物)
宮崎 大乗は補完的として 佐々木閑と意見対立

「言語がどれ程感官に食い込んでいるか」を発見したのが龍樹
世俗(凡夫)の世界は言葉によって成り立っている:言葉・戯論・分別…言語的多様性…実体はない
言葉は人間の実感を支配している
戯論をなくす→ 解脱

龍樹が十二支縁起を解いた部分があるが、なぜ解いたかというと、アビダルマを解説しただけ
言葉の世界、虚構である。
十二支縁起は認めるだけでは意味なし。滅さなければならない。

疲れたので、続く…

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心がラクになる生き方 メモ

「自分を大切にする」ことをやめる
 人はこの世に「たまたま」生まれてきた 存在にすぎません。
 そんな自分と折り合いをつけ、
 苦しさに「立ち向かう」のではなく、
 苦しい状況を調整しながら、やり過ごす生き方があります。

「生きがい」や「やりがい」をつくる必要はまったくない
 生きがい探しをしたくなるのは、
 現状に不満や不安があるときです。
 問題を直視して、不具合を調整すれば、
 生きがいなどは無用でしょう。

感情が揺れてもかまわない
 人間に喜怒哀楽があるのは、当然です。
 動揺したり、怒りがこみ上げたりしても、
 しなやかに揺れて、またスッと元に戻る 「不動心」を目指しましょう。

すぐに「答え」を出そうとしない
 自分の問題を「他人にわかる言葉」にしてみると、
 解決の糸口が見えてきます。
 主語と述語を明確にして、
 自分の置かれた状況や問題点を整理してみましょう。

怒りは、何も解決しない
 怒りが湧くのは、
 「自分が正しい」と信じているからです。
 怒りに翻弄されたくなかったら、
 自分が正しいと信じていることが、
 本当にそうなのかどうか、冷静に考えてみてください。

後悔は、抱えたまま生きればいい
 亡くなった人への後悔が残るのは、当たり前のこと。
 無理に打ち消そうとせず、
 その後悔を抱いて生きると腹をくくれば、
 いつか、そこに「意味」を発見するときが来ます。

悲しみたいだけ悲しめば、ふと笑える瞬間が来る
 誰がなんと言おうと、
 別れの悲しみを我慢する必要はありません。
 死者を思う気持ちとともに生きると決め、
 「悲しむ作法」を見つけることが大切なのです。

死を乗り越えようとしなくていい
 ふと生まれてきただけの人生に、
 「意味」や「価値」を求める必要はありません。
 人生とは、「自分」という舟で川を渡るようなもの。
 渡る間だけの道具です。

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心がラクになる生き方 目次

「禅僧が教える 心がラクになる生き方」 南直哉 目次

一章 あなたが大切にしている「自分」とは何か
 「自分を大切にする」ことをやめる
 「生きる意味」は見つけなくてもいい
 悩みは人間関係の中でしか生まれない
 「なりたい自分」になれなくたっていい
 自分のためではなく、誰かのために何かをする
 生きるか死ぬか以外は大したことではない
 自分自身で判断できるのは、人生の「些事」だけ
 「置かれた場所」で咲けなくていい
 「人生に意味などない」というところからスタートする
 情報の99%はなくてもいい
 人生はネガティブで当たり前

二章 「夢」や「希望」という重荷を下ろす
 「夢」や「希望」がなくても人は生きていける
 夢も、「夢を追う自分」も徹底的に冷たく見る
 「欲しい、欲しい」と思うときは、強い不安があるのだと考える
 「生きがい」や「やりがい」をつくる必要はまったくない
 テーマを決め、それに賭けて生きてみる
 「生きているのも悪くないな」と思える人生を生きる

三章 感情に振りまわされないために
 こじれた人間関係は「愛情」や「努力」では変わらない
 感じが揺れてもかまわない
 感情の波からいったん降りる技術を身につける
 すぐに「答え」を出そうとしない
 怒りは、何も解決しない
 苦しい嫉妬は、錯覚が生んだ感情にすぎない
 怒りで頭の中がいっぱいになったら、ルーチンな作業をする
 人脈も友達も、要らない
 「本当の気持ち」を話せるだけで、人は救われる
 家族にも日々のいたわりや心遣いを示す
 自分が抱えている問題を話せる「淡い関係」の人をつくる
 「名医」を探すつもりで、心の問題を話せる僧侶を探す

四章 死に向かって今日を生きる
 こぼれてしまった悲しみを癒してくれる場所がある
 後悔は、抱えたまま生きればいい
 悲しみたいだけ悲しめば、ふと笑える瞬間が来る
 「どうして私ばっかり!」という思いから解き放たれる
 閉じ込めた悲しみを認めると、大切な人の死を受け入れられる
 「自分が、自分が」と考えない
 いい縁を持った人が、見事に逝ける
 死を乗り越えようとしなくていい
 「この世」より「あの世」を心配するのは筋違い

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